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エムズナイン株式会社
柾木久央のイラスト

諦めが、悪い。

柾木 久央エムズナイン株式会社 代表取締役1986年生まれ

自分で決める

最初に自分で決めたのは、辞めることだった。

  1. 高1の終わり

    中学から野球部だった。向いてはいなかった。
    高1の終わりに、辞めた。
    初めて自分で決めた経験だったと思う。

  2. 高2になる春

    文理選択。「理系はダサい奴が多いから嫌だ」という理由で文系にした。
    いまでも、とても後悔している。

  3. 高3

    吹奏楽部でパーカッションを叩きながら、軽音部を作った。
    なかったから、作った。
    文化祭でラグビー部の連中とバンドを組んで、ハイロウズにハマった。

  4. 浪人

    現役で阪大に落ちた。
    浪人して、志望校を京大に上げた。
    自分を拒否したところより上に行かないと、プライドが許さなかった。

  5. 京大1年

    授業に興味が持てなかった。サークルでバンドばかりやっていた。
    前期は0単位を狙った。テストもレポートも全部出さなかったのに、
    2単位だけ取れてしまった。

  6. 京大3年

    専攻配属は2年までの成績で決まる。行きたかった社会学に行けなかった。
    直談判した。「一般教養の成績で、私の専攻のモチベーションを測らないで欲しい」。
    屁理屈だと思う。でも、通った。

  7. 京大5年

    バンド名はザ・ピルクルズ。ドラムを叩いていた。
    卒論のテーマは、ブルーハーツ。

卒業論文

「甲本ヒロトと真島昌利の歌詞が映し出す青年像」

結論 — 生きることの無条件の肯定

好きだったからこのテーマにした。それだけの理由だった。
大好きな歌詞を、統計と社会学で分析した。

卒論をAIで図解にしたものを見る(新しいタブで開きます)

人文・社会科学系(A群)

67.1

自然科学系(B群)

78.9

あとから成績表を見返して、気づいたことがある。
「理系はダサい」と文系を選んだ僕は、理系のほうが得意だった。
16歳の判断の答え合わせは、20年後だった。

卒業するとき、就活はしなかった。
京大の新卒カードを、ロックンロール精神で破り捨てた。

楽しいことがしたい。それだけだった。

#296 #331

#296

Do not despair however many times you fail.
It is a mistake to lose hope after your first try.

#331

You learn more when you have difficulties
than when everything is going well.

2011

就活をしなかった僕は、学生時代にアルバイトしていた塾で、そのまま社員になった。
英語を教えるのは、自分にできることだったから。

条件はひとつだけ。バンドの例会がある水曜は、18時に上がらせてもらうこと。
その約束は、守られなかった。

バンドができなくなった。恋人にも裏切られた。90連勤した。
追い詰められて、夜逃げのように辞めた。
友達とレンタカーを借りて、夜中に荷物をまとめた。

次の日から、やることは決めていた。
金髪にして、サークルの夏合宿に押しかけた。もう一度、人生の夏休み。
それから1年かけて、72キロあった体重を56.9キロまで絞った。

転んでもタダでは起きない。

2012年7月9日の体重計。56.9kgを表示している
2012年7月9日。当時の体重計。

#296

どれほど失敗を重ねようとも、決して絶望してはならない。
一度挑戦して失敗したくらいで希望を捨てるのは間違っている。

2011年10月

貯金が尽きかけた頃、募集が来た。
「英語講師が交通事故に遭ったので、来週から授業できる先生を探しています」
「暇です」と手を挙げた。
金曜に応募して、土曜に面談して、月曜から教壇に立った。
京都産業大学附属高校。冬はパチンコ屋でバイトして、春からクラスを持った。

  1. 憧れ

    憧れの人がいた。駿台予備学校の竹岡広信先生。
    『ドラゴン桜』の英語教師のモデルになった人だ。
    大学の塾バイト時代、参考書を読み漁るうちに、この人の本だけ何かが違うと思った。

  2. 1回目

    駿台の講師採用試験を受けた。筆記は通った。落ちた。

  3. 2回目(2013)

    もう一度受けた。今度は筆記で落ちた。
    履歴書で落ちているのかもしれない。学歴が足りないのかも、と考えた。
    だから、京大の大学院を受けることにした。
    学部時代に履修した英語学の先生に直談判して、ゼミに潜り込ませてもらった。
    入試にフランス語が要ると気づいたのは12月。2ヶ月で詰め込んで、受かった。

  4. 準備

    単語帳を色分けして、4日で1周した。
    30周しても覚えられない単語は、片っ端から語源を調べて書き込んだ。
    移動中はCDをシャッフル再生で、倍速で聞いた。

2014年3月15日。大阪校で竹岡先生の講座を聴講した、その日の午後。
長文のメールを書いた。

柾木 → 竹岡先生(14:21)[抜粋]

どうしても竹岡先生と一緒に仕事をさせていただきたいと思うようになりました。

今思うと、去年の不合格は良いショック療法だったように思います。「順風満帆の時より、うまくいかない時の方が学ぶことが多い」を身を持って感じています。今年の採用試験では合格できるようがんばりたいと思います。ドラゴン例文集100番、よくばり英作文296番には本当に勇気をもらいました。

竹岡先生 → 柾木(23:57)[抜粋]

先生の熱き思いが、メールから感じ取ることができました。
是非、駿台に来てくださいね。

頑張ってくださいね!
全力で応援しますよ

#296 も #331 も、竹岡先生の『よくばり英作文』(駿台文庫)の例文番号だ。
27歳の僕は、先生の例文に勇気をもらいながら、先生に会いにいくメールを書いていた。

2014年8月

京大のプログラムで、オックスフォードに1ヶ月留学した。
45人の寮生活。同期はみんな自分より若くて、優秀で、
将来のことをしっかり考えていた。

2014年秋

帰国してすぐ、3回目の試験。最後のチャレンジだと決めていた。
後悔がないように、できることは全部やった。

竹岡先生は、模擬授業を教材ごと見てくれた。
亀岡の竹岡塾にも呼んでもらって、直接フィードバックをもらった。
そこまでやって——落ちた。

竹岡先生には「ごめんなさい」と謝った。
もう英語なんか知らん、と思った。

#331

順風満帆の時より、
うまくいかない時の方が学ぶことが多い。

— 竹岡広信『よくばり英作文』

全部やって、ダメだった。
人の背中を押しながら、
自分は安全地帯にいるだけだった。

人の背中を押す前に、まず自分がやれ。

英語教育のキャリアを、捨てた。

29歳未経験、就職。

人生で初めて、本気で就活をした。

2015

外資コンサルのEYアドバイザリーに、内定をもらった。
でも選んだのは、軽音サークルの先輩がいる不動産会社だった。
ザイマックス、経営企画部。中途採用枠、29歳。
会社員は、未経験だった。

右も左もわからないまま、エクセルとパワポで、がむしゃらに働いた。
組織がどう動くのか。人がどんな思惑で動くのか。
それが体に入っていたと気づくのは、ずっと後のことだ。

2016年3月31日、東京ドーム

Day 1

μ's Final LoveLive!

入場済

Day 2

μ's Final LoveLive!

未使用

μ's(ミューズ)という、アイドルグループがいる。アニメ「ラブライブ!」の9人組。
大学院の頃、バイト先の教え子の影響でハマった。
夢を諦めた時も、初めての就活も、それからの人生の節目も。
大事な時にはいつも、隣にμ'sがいた。

そのμ'sの、ファイナルライブ。
チケットは、2日とも当たっていた。
行けたのは、初日だけ。
2日目は、仕事を休めなかった。
悲しかった。

2017 関西出向・宅建取得 / 2018 大学院退学

働きながら、社外の交流会にも顔を出すようになった。
「何か一緒にやりましょう」と盛り上がる。でも、僕には決定権がない。
だんだん、行かなくなった。

自分で決めて、結果を自分で受け取りたい。
成功でも、失敗でも。

  1. 2017 民泊

    大阪・南堀江の2LDKマンション。1部屋を貸すことから始めた。
    翌年には十三に5LDKの戸建てを買って、1から民泊を作った。
    自分も一緒に住んで、ゲストと暮らした。
    やってみてわかった。不動産は、創意工夫の余地が思ったより少ない。
    僕の事業じゃなかった。3年やって、売った。

  2. 2019 ウェブマーケ

    軽音サークルの先輩が立ち上げた会社で、ウェブマーケを手伝い始めた。
    Instagramの運用、リスティング広告、クライアントの窓口。
    やってみてわかった。こっちは、楽しかった。
    自分で営業して、自分の仕事も取れるようになった。

  3. 2019年12月

    ザイマックスを辞めた。

  4. 2021年4月

    リベシティというコミュニティのオフ会で、富士宮のロッジに泊まった。
    参加者20人の中に、一人の看護師がいた。
    この出会いは、あとで効いてくる。

2021年6月30日

エムズナイン株式会社を、設立した。

社名の由来は、μ'sの9人。
設立日は、μ'sの結成日に合わせた。
社名を決めるのに、半年悩んだ。

2022年4月

ザイマックス時代の先輩に、自分から連絡した。
経営企画部にいた頃、隣の部署で新しい事業が
立ち上がっていくのを見ていた。
その事業が、人手に困っていると聞いた。

契約をもらった。
「社員だから」じゃなく、自分の実力が必要とされている。
そんな気がして、嬉しかった。

会社員も、民泊も、ウェブマーケも、全部やってみた。
自分で決めて、自分で受け取る場所が、やっとできた。

背中を押してくれたのは、μ'sのみんなだった。

逃げちゃダメだ

トップの器じゃない。ずっとそう思っていた。

2022

自分の会社と並行して、人の会社にも関わるようになった。
ある会社では、取締役として。別の会社では、株主として。

僕は、良くも悪くも高学歴で、型破りなことができない。
バカでかいビジョンを掲げるリーダーを、隣で支えるほうが向いている。
そう思っていたからだ。

2022-2024

マーケティングの相談に乗るうちに、頼まれて取締役になった。
関連会社の設立。店舗展開の準備。キャラクターIPとのコラボ開拓。

でも、考え方が合わなかった。
2024年3月、取締役を退いた。

2023-2024

株主になった会社は、プロダクトを作っていた。
開発を続けるには、資金がいる。だから提案した。
「コンサル業で稼いで、開発費を作ろう。その仕事は僕が回す。
 ただ、動く分のフィーはほしい」

ここでも、考え方が合わなかった。
出資金を返してもらって、引いた。

二回続けて、うまくいかなかった。
能力の問題じゃない。打ち手は出せた。手も動かせた。
でも、どうしても決められないものがあった。

「何をやって、どう稼ぐか」じゃない。

誰と、どういう考え方で仕事をして、
届ける価値は、人類を幸福に導くと
僕らが信じられるものか。

それは、文化だ。
文化を作るのは、トップにしかできない。

そこにこだわるなら、人の会社では、できない。

10年前にも、同じことを学んだはずだった。
人の背中を押す前に、まず自分がやれ。

逃げちゃダメだ。
リーダーであることから、逃げてはいけない。

自分で始めた物語

始まりは、ひとつの相談だった。

2024

富士宮で出会った、あの看護師から相談を受けた。
訪問看護ステーションを立ち上げたい。
仲間と出資し合って、会社を作るつもりだ、と。

僕は言った。
「うちの会社でやろう。いいものにできる自信がある」

今度は、僕が口説く番だった。

2024年9月

訪問看護ステーション「ゆりえ」を、横浜に開いた。いまは東京と、2拠点。
融資を受けて、先行投資して、スタッフのアプリは自社で作った。
記録の下書きは、AIが数秒で作る。
看護師は、利用者さんと向き合う時間に集中する。
人手不足の業界。採用には、ウェブマーケの経験を使っている。

ステーションの名前も、ミッションも、ビジョンも。
チームで時間をかけて、考え抜いた。

やりたいことを、「やりたい」と言える人を増やす。

訪問看護の利用者さんは、病気や障害とともに、自宅で暮らしている。
「やりたいことなんてない」。そう言う人は、少なくない。
だから、お節介に背中を押す。「こうした方がいいと思うので、やりましょう」。
それが、ゆりえの看護。

ゆりえ

訪問看護

「やりたい」と言える人を増やす。

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AI活用支援

経営支援

ウェブマーケから、AIへ。
経営者の隣で手を動かし、仕事の進め方ごと変える。

事業紹介を見る

XCC

AI開発のスクール

0期生13名が、AIで自分の仕事を変えるアプリを作っている。

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看護と、経営支援と、教育。
バラバラに見えるけれど、根っこは同じ。

文化を大事にする会社は、採用でも強くなる。
ゆりえで、それを確かめている。

どれも、自分で決めて、自分で始めた物語だ。

「一緒にやろう」と、胸を張って誘える物語が、ここにある。

ミサイルほどのペンを片手に

— THE BLUE HEARTS「1000のバイオリン」(作詞: 真島昌利)

高3の冬、「私立大学」というものがあると初めて知った。

文系を選んで、理系のほうが得意だと後で知った。

京大の新卒カードは、価値に気づく前に破り捨てた。

英語講師の夢は、3回落ちて、やっと諦めがついた。

キャリアに本気で向き合ったのは、20代後半。

一度結婚して、離婚した。

子供が欲しいと思ったのは、この歳になってからだ。

大事なことに気づくのが、いつも遅い。
人生、周回遅れだ。

だからこそ、人の人生には、お節介でも推したい。
「あの時、強引にでも引っ張ってくれてよかった」と、
あとで言われるような、ウザめのアツい奴でいたい。

楽しいことがしたい。

僕はずっとそう思って生きてきた。
英語教師、会社員、起業 — 場所や肩書きは変わっても、結局やりたいのは一つだった。

本気で生きること。本気で生きる人を増やすこと。

やりたいことは、いまも増え続けている。

本気で、生きよう。
世界を、変えよう。

答えは、ある。

どこかでお会いすることがあれば、あなたの話を聞かせてください。